SAEKO - OFFICIAL WEBSITE

Thanks to all I’ve seen in every moment of my life … you all are my Heaven Below!

SAEKO’S STORY — BIOGRAPHY

流れ行く時の中で この瞳に映る全てを愛したい … you all are my Heaven Below!
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誕生 小・中学時代
SAEKO 1974年、大阪に生まれる。感性豊かな少女であるとともに、時おり人には見えないもの・聞こえないものを感じるなど、幼少時より霊的な感覚にも鋭いものがあった。両親が多忙な共働き家庭であったことから、小学生の頃から常に愛への渇望感があり、非常に多感、且つ内省的な少女であった。そんな SAEKO が中学に入っていじめに会う。学校にも家庭にも行き場をなくした SAEKO は、自分はこの世に存在する価値さえ無いのかと、いつしか生きる希望を失いはじめる。

大きな夢の始まり
そんな頃に聴いたハードロック・ヘヴィメタルから彼女は「生きろ!! 自分を信じて」という強烈なメッセージを感じ取る。音楽の持つ力に衝撃を受けると共に、初体験の音楽であったにも拘わらず、「ずーっと昔、生まれる以前から知っていた」といった不思議な感覚にも満たされる。
こうして再び生きる意欲を取り戻し始めた14歳のある日、SAEKO は“運命の声”を聞く。「貴方はこの為に生まれてきた」と。そして突如、海を越えてツアーをしている自分の姿が見え、その神秘的体験を通して、SAEKO はこの時 “生まれて来た意味” をはっきり自覚した。
以来、ハードロック・ヘヴィメタルが生きる希望となり、世界をツアーすることを将来の目標と定めた SAEKO は高校時代に幾つかのバンドを結成。しかしいずれも多難な現実の前に立ち往生。ついには「あの声はただの空耳…」と無理やり夢を封じ込め、大学進学の道を選ぶ。
しかし、音楽を離れることはできず、大学時代にも幾つかのバンドを結成。けれど、敗北感を引きずっての大学生活に“生”の実感は乏しかった。方法はおろか才能の有無さえも分らぬまま、家族をはじめ誰もが夢物語だと猛反対する道を一人で行く苦しさ。夢の実現の為には、人生の全てを賭けねばならないと感じながら、リスクに対する恐怖から“大学進学”という安全な道を選んでしまった自分。結局はその苦しさや恐怖から逃げ出した自分への嫌悪感、私は私で無くなってしまったという喪失感や虚無感等から自律神経失調や不整脈、不眠症による眠れない夜が続く。
そんな頃、聖書を読んで SAEKO は号泣する。「恐れるな、生きよ」と、あの“運命の声”と同じ何かを感じたのだ。
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FAIRY MIRROR ラスト・ライブ(2001 4月 東京)
FAIRY MIRROR
SAEKO (Vo.) Koichi(Gt.)以外の正式メンバーがなかなか定まらない INSANIA だったが、メンバーオーディションに並行してライブ活動を続行する中、1999年の MARI(B.)加入を機に FAIRY MIRROR と改名。自主制作テープをリリース、活動範囲も大阪から神戸、東京へと拡大する。

そして全オリジナルメンバーが揃った2000年春には自主制作CDRをリリースし活動も本格化。東京や大阪などのFMラジオでも FAIRY MIRROR の曲がかかり始める。また Lights Out Records から発売された日本の HM バンドのコンピレーションアルバム(他には陰陽座も参加)にも2曲を提供し、SAEKO 自身もレーベルからソロアルバムのオファーを受ける等、チャンスは近づいているかに見えた。
理想と現実の狭間で
しかしまたそれは、SAEKO にとって一つの苦しみの始まりでもあった。レーベル、ライヴハウス始め周囲はもちろん彼女の成功を望んでいた。が、彼女は成功したいのでは無かった。苦しみや恐怖の中に見出だした希望や信じる力を、音楽を通して一人でも多くの人に伝えたい、それだけが彼女の歌う理由、いや生きる理由だった。自分が歌う目的と周囲が期待する成功の微妙なギャップに彼女は苦しみ始める。加えて変らぬ家族・親戚の無理解、バンドのリーダーとしていつしか溜め込んでいた長期間に亘るストレス。現実社会からは余りにも遊離して見える超純粋、理想主義的な生活信条。さらには連日睡眠時間3時間といった日々が招いた過労 etc. が複合的な原因となり、2000年の暮れ、SAEKO は倒れた。そして入院。

重度の鬱状態と診断され、医師は発病の最大要因である音楽活動の停止を要求。しかし音楽だけが拠り所であり生きる目的でもあった
SAEKO にとって、活動停止は耐え難く、入院中も病室と会場を往復して入魂のライブ出演を続行。結果、彼女の心身に積もった疲労は癒されるどころかさらに悪化。ついに限界を実感した SAEKO は、20014月、東京と大阪の公演を最後に、新生 FAIRY MIRROR に自身の夢を託してバンドを脱退する。
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A month after getting out of hospital

しかし退院後も病状は一進一退。薬を手放せない日々が続き、完治を疑うことも度々であった。そんな中で、FIARY MIRROR やシーンで活動する音楽仲間たちの情報を見聞きすることは、ただ虚しく治療に明け暮れるだけのSAEKOにとっては地獄の苦しみでもあった。それまでの十数年を音楽に、そしてFAIRY MIRRORに、自身の愛と全身全霊を注いできたSAEKOであり、脱退後もそれらが彼女の全てであることには少しも変りがなかったから。
ただ泣き暮らす SAEKO に「このままでは本当に死んでしまうのでは」と不安を募らせた家族は、彼女が「日本を離れたい」と言い出した時、賭ける思いでサポートを決意。2001年の夏、不安定な病状を抱えたまま、大量の薬を詰め込んだスーツケースを手に SAEKO はスイスへと旅立った。
復活
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Switzerland

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それから約二ヶ月半、雄大で美しいアルプスの自然に囲まれて、またおおらかに暮らす心優しい人たちとの交流を通して SAEKO は目覚しい回復をみせる。ゆったりと流れる時間の中で人生を見つめ直し、病に倒れたことや FAIRY MIRROR 脱退という事実についても ようやく受け入れられるようになった。

そしてドイツで開催された野外フェスティバル・WACKEN OPEN AIR(毎年三日三晩に亘り開催される世界最大級のハードロック・ヘヴィメタルの祭典)を訪れる機会に恵まれた SAEKO は、そこでの光景に心を奪われる。世界中のバンドとファンが集まった会場のエネルギー! サウンド!! それは長年彼女が愛し追い続けた世界そのものであり、渦巻く熱気には “未来”を再び信じさせる何かがあった。
SAEKO は WACKEN 会場から日本の家族に電話する。「凄い! 凄いねん!! 病気完治したら絶対にドイツに戻る。ヨーロッパでまた一からバンドを探して、次は絶対にここで、WACKEN で歌うよ!」と。長引く病状にいつしか音楽から離れて生きることさえ考え始めたていた彼女の、それは正しく、復活、原点回帰の瞬間だった。次なる挑戦を胸に帰国した SAEKO は、その後約10ケ月、治療を続けながら日本を離れる日に備えて英語の勉強に没頭する。
未知へのステップ:ドイツへの旅立ち
医師から完治を告げられた SAEKO はすぐさま旅立ちの準備に入る。この時、彼女は28歳。ようやく家族の理解・サポートを得て、海外公演を夢見て以来14年もの間、ただの無謀な夢でしかなかった世界を目指す準備がついに整ったのだ。

しかしそれは同時に、たった一人で未知の世界へ飛び込む恐怖心との闘いであり、家族や友人さらには恋人を含め、これまでの暮しや思い出すべてを捨て去る決別の覚悟を強いることでもあった。引き裂かれそうな心を抱えて SAEKO は近所の教会を幾度か訪ね、一人で何時間も祈った。
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ハンブルグ市庁舎前 マルクト広場

そんなある日、教会の神父に出会った。「一人でヨーロッパに行けって、そんな声が離れないんです。でも凄く怖いし、沢山の別れも辛すぎて」神父の答えは「そんなに強い風なら吹かれていきなさい。人生には、時に個人が逆らえないような風が吹く。もし日本に戻るべきなら、その時また違う風が吹くだろうから、それに吹かれて戻っておいで」というものだった。そして 20027月末、SAEKO は一人ドイツへ旅立った。
その後2ケ月ほどを南ドイツの田舎(Schwaebisch Hall)で過ごし、そこで再度覚悟が揺るがぬことを確認した SAEKO はメンバー募集のフライヤーを詰め込んだスーツケースと、自作の楽曲アイデアが詰まったパソコン一台だけを持ち、秋の気配が深まる中、欧州ヘヴィメタルのメッカ、ハンブルグへと移った。
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SAEKO が配ったメンバー募集のフライヤー

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At Studio (Lars, Mari, Saeko, Henning)

しかし、全く何のアテもツテもない SAEKO に出来ることは限られていた。連日、たった一人、路上やライブハウス、ロックバーに出かけては配り続けた募集フライヤー …… 彼女の信念は、国境を、また孤独、不安、恐怖 etc. それら全てを乗り越えさせたのだ。
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プロデューサー Lars Ratz との出会い
そして2002年冬、SAEKO Lars Ratz (プロデューサーであり、ドイツのメタルバンド METALIUM のリーダー) から予期せぬ電話を受ける。Lars はハンブルグのメタル・シーンの友人から彼女の噂を耳にしたのだ。「日本からたった一人で、夢を追いかけてやってきた女性ヴォーカリストがいるぞ」と。

一方 SAEKO は、日本でも、またドイツに来てからも、レーベルやプロデューサーからのオファーを断わるという経験を幾度か重ねていた。打診された契約話はどれも彼女の望むものとは違った。「自分を信じてと伝えたいなら、まず私自身が信じ続けてきた音楽をやらなければ!きっとどこかにそんな私を理解してくれる人がいるはず!」と、どうしても譲る事が出来なかった。
しかし、自身がミュージシャンでもある Lars は違っていた。音楽に対する姿勢・信念に共通するものを感じた SAEKO は、20031月、TORNADO STUDIO でテストを受ける。情熱の限りを込めて課題曲を歌う彼女の歌声は国や文化の壁を越え Lars の心を動かした。「信じる音楽の為に一人で海を越えて来た、生き方そのものがメタルだ! それがそのまま歌に出ている!」と、すぐにプロダクション契約を交した。因みにこの時の課題曲が1stアルバムに収録の“Sinners for False Lights”である。
そして契約直後より来るべき自身のアルバム制作に備えて、METALIUMのヴォーカリストHenning Basseをコーチにボイストレーニンクなどレッスンを開始。 2004年3月世界リリースとなったMETALIUM4枚目のアルバム「As One」(日本盤発売は2003年12月)の中の一曲に、先ずは女性Voとしてゲスト参加。Henning の強力なパワーヴォーカルとのデュエットにも互角の歌唱を聴かせた。
ABOVE HEAVEN - BELOW HEAVEN: 1ST ALBUM
そして2003年秋、Lars Ratz プロデュースのもと、1st アルバムのレコーディングが始まった。楽曲はSAEKO / Lars / Michael Ehre (当時 METALIUM、現GAMMA RAYドラマー) のコラボ、歌詞は全て SAEKO 自身によって書かれた。演奏は M. Ehre Gt./Dr.Co. Produce を、Sven Lueke と元 ACCEPT で活躍した Hermann Frank がギターソロを、FAIRY MIRROR の盟友・井上真理子がB.を、キーボードとピアノは SAEKO 自身が担当した。
このアルバムのテーマである誰もが持っている内なる光とは、命そのものの輝きだと SAEKO は言う。誰もがこの世にたった一つのかけがえのない存在。だから、各自、いまここに存在することの尊さと美しさに気付き、一瞬一瞬、本当の自分を生きていこう。そんな思いを SAEKO は実人生に起こったことや見聞きし感じたことなどを通して真摯に表現。1stアルバム「ABOVE HEAVEN BELOW HEAVEN」は、はからずも顕れた和のテイストや彼女の人生観が滲み出た作品となり、ミステリアス・東洋的という声も寄せられた。アルバムは Lars が立ち上げたレーベル ARMAGEDDON MUSIC より823日に全欧リリース。日本盤は同年106日、キングレコードより発売された。
新たな挑戦
2004年10月、SAEKO は DORO、BLAZE のオープニングアクトとして初のヨーロツパツアーを行う。SAEKO 渾身のライブパフォーマンスに、ツアー半ばには持参した CD が全て売り切れる事態となる。因みにこの時の映像は、2006 年春リリースの 2nd アルバム LIFE(ヨーロッパ盤)に収録されている。
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DORO とのツアー中の一枚

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20057月には、野外フェスティバル METAL BASH に出演。SAEKO 以外のメンバーは、井上真理子(B)、同じく FAIRY MIRROR 時代からの友人・柳ヶ瀬聡子(G)Julia Pruns(G)Asgard Niels(Dr)からなる日独混合編成。

そして遂に85日。4年前の夏、夢への再挑戦を決意した復活の地 WACKEN OPEN AIR のステージに SAEKO は立った!この日、ラストの曲が終わるやアンコールを求める歓声と拍手が鳴り止まず、直後に会場の CD は全て売り切れ、急遽再プレスをかける騒ぎとなった。

同じく87日。ハンブルグのライブハウス・マルクトハレにおいてMUCCのオープニングアクトとして出演。SAEKO初体験のオーディエンスにも独特のSAEKOワールドを印象付ける。
2ND ALBUMLIFE
レコーディング
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レコーディング・スタジオで

2005年初夏、再びLars Ratzプロデュースによる2nd アルバム「LIFE 」のレコーディングが始まる。今回は歌詞のみならず楽曲も全て(カヴァー曲 MY WAY は除く) SAEKO 自身によって書かれ、アレンジは前回と同じく Lars M. Ehre が担当。演奏は、Key/Piano SAEKOGt./Dr. M. EhreBa. が井上真理子、そしてギターソロは、夏のフェスティバルでステージを共にした柳ヶ瀬聡子が弾いている。
2ndLIFE」では、理想と現実の狭間で誰もが経験する葛藤、闘いといったものがテーマとなった。SAEKO は言う。「私にとって、生きるとは、自己の理想を目指して目の前の現実と格闘すること」だと。
果てなき夢への挑戦
LIFE」レコーディング中、SAEKO はレーベル ARMAGEDDON MUSIC からの離脱を決意した。芸術的観点云々もさることながら、音楽上の思想・姿勢といった核心部分に溝を感じたのだ。奇しくもアルバムのテーマとなった理想と現実の狭間での闘いが実際に起きた格好でもあり、テーマ通りの嘘のないアルバムであるためには、作品に関する妥協は絶対に出来なかった。そして、100% 理想通りの作品を作るには結局自分でやるしかないと悟った SAEKO は、10月、自身のプロダクション OFFICE SHINPUH を設立。

同じ頃 Lars ARMAGEDDON MUSIC を運営して行くについて共同経営者との間にヴィジョンの違いが浮上、自ら設立したレーベルを離れることを決意。11月、Lars に共感して出たスタッフと共にハンブルグに新たな ARMAGEDDON PRODUCTS を立ち上げた。彼もミュージシャンとしての自分の意思、良心に忠実であることを選んだのだ。思わぬ展開の中、Lars 率いるこの新生 ARMAGEDDON PRODUCTS が、引き続き SAEKO の妥協なき夢をサポートするべく、彼女の作品の宣伝・流通・販売一切を引き受けることとなった。

苦渋の決断:日本帰国と活動停止
2002年にラーズ・ラッツに出会うまで、SAEKO はレーベルやプロデューサーからのオファーを断り続けてきた。それは彼女が『商業的計算を排除して純粋な自己表現として作品を作る』との信念を譲れなかったからだ。ここにきてそれを譲る訳にはいかなかった。レーベルを離脱し、SAEKO はその信念と音楽的自由を守り通した。だが、「独立」は製作費、活動費、宣伝費の全てを自身で捻出することを意味した。その結果「LIFE」ミックス中に彼女は苦渋の決断を迫られる。本格的な音楽活動は休止せざるを得ないと

日本でインディーズバンドを運営してきた SAEKO である。独立当初は同じ方針で継続を考えていたが甘かった。ワールドワイドに活動する今、必要経費は何十倍にも膨み、いまや個人に可能な額の範囲を超えていた(実際、日本のミュージシャンと共に欧州ツアーを決行しようとしたが、全メンバーを日本から呼び寄せ滞在させる費用はどこにもなかった)。

思えばこれまでの十数年、人生の全てを音楽に捧げてきた。けれど、信念を曲げられない故か、結局、音楽からは一銭の収入も無かった。「LIFE」制作の為に貯金も使い果たし、バイト収入だけでは音楽活動どころか自身の生活もままならない。「…信念を譲れない以上、音楽以外に安定した収入源を確保するしかない!」しかし、日本人の SAEKO が欧州で労働ビザを取得するのは容易ではなく、収入限度額を超えるバイトは禁じられていた。更に滞在許可の更新も予想以上に手間取った。そんな現実を前に SAEKO は欧州での音楽活動に終止符を打ち、日本帰国を決意する。

LIFE」制作終了
「これが最後の一枚になるかも…」、そう思いながら SAEKO はアルバム完成に全力を注いだ。そうしてミックス作業に関わるうち、SAEKO は「未知の世界に飛び込む」という自身のタスクが、実際に現実世界で幕を下ろそうとしているとのではないかと感じ始める。2002年の渡独の目的は「名声」でも「商業的成功」でもなかった。SAEKO はただ、人の心が神のような「何か」で繋がっていること、その「何か」は必ず私達を導くこと、それらを、自身が未知の世界に飛び込むことによって描きたかったのである。何故か? それは、より多くの人がそのような力に気づき、唯物主義的世界観から精神主義的世界観にシフトすれば、世界はよりよくなると心から信じていたからである。口で言うのは簡単だが、多くの人に信じて貰うには”実際に”やって見せなければならなかった。

作曲、録音時は日本帰国など全く考えていなかった SAEKO だが、不思議なことに「LIFE」最後の曲 Eternal Destiny(カヴァー曲 My Way を除く)は次のように終わっていた。" Now I go back "(今、私は戻る)/ It's time to say good bye(別れの時が来た)/ Don't cry(泣かないで)/Soon I will meet you again(すぐにまた会えるから)/ Please remember me(私を覚えていて)/ I will leave a piece of me in you(私のかけらを君の内に残して逝くから)/ Deep inside(魂の奥深く)/ Please remember me ...(どうか私を覚えていて)" 。更に カヴァー曲として選んだ My Way の歌詞も帰郷についてだった。まるで彼女の帰郷と活動休止を予言するかのように

2006年3月「LIFE」完成
LIFE を完成させ、帰国を前に SAEKO は次のように語った。
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『強い者が勝ち 弱者が傷つけられ、 戦争や憎しみ、悲しみに溢れるこの世界 ... そんな理不尽な世界を前に、せめて神はいると信じたかった。だから、その存在を証明しようと、ひたすら信じ、祈り、走り続けたのだと思う。今、全てを振り返って思う。 涙や孤独や 苦痛から逃れ、誰も傷つけずに生きたいと願ったけれど、 人は涙を流して初めて真の幸せの意味を知り、 裏切られて初めて真の許しの意味を知るのかもしれない。 別れの後に出会いがあるように、 憎しみが愛や許しに変わり、絶望が希望や新しい夢に変わる。その変化の営みこそが LIFE なのだろう。この不確かな暗闇の中で『救い』を求めて走る、そんな私達の姿こそが、実は最も美しい生命の輝きなのかもしれない。

そして、そんな私達を見守り、導いている存在は確実にある! たった一人で国を出た私をここまで導いてくれたように、 私達が光を見つけられるようにと道を示す何かがある! 私はこのアルバムでそれを『Collective Truth(共同真実)』と名付けた。時々、もう終わりだと思うこともあるけれど、耳を澄ませば、誰の心の奥にも『Collective Truth(共同真実)』が囁いている。だから恐れなくていい。私たちはただ、毎日、その「何か」を信じて歩いていけばいい。私が音楽活動を通して伝えたかった事はそれなんです。

今、一つの章が終わり、私は日本に戻ります。心の声に従って自分に出来ることは全てやったという意味において、後悔はありません。私のかけらこのアルバムを残して帰国します。

活動再開まで時間がかかりそうだけど、私を覚えていて欲しい… Please remember me ......
そして、誰もが世界でたった一つのその人生を美しく生きられますように。
君の夢の彼方に!To our glorious days!
そして、2006年3月末、SAEKO は愛する家族や友人の待つ日本に戻った。