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ESSAYS - エッセイ

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  • LETTER OF MOTIVATION (入学動機書) 200710
    下記は 2007 年にオランダ・ライデン大学 英語言語と文化学修士課程に出願する際に提出した Motivation Letter (入学動機書)です。こちらは原文(英文)のみですが、他のエッセイは日本語です。

    音楽だけでなく言葉で日本と世界の人を繋ぎたいというような主旨で書きました。宜しければご覧下さい。
    In Germany, on August 5th 2005, as the first female vocalist from Japan, I sang my songs on the stage at the world's biggest metal festival: Wacken Open Air . Mighty calls of “encore” erupted from all over when I finished my last song.

    Japanese society is based on community rather than the individual. Two Japanese proverbs well illustrate this spirit: "長いものにはまかれろ" ("Submit to that which is greater. ") and "出る杭は打たれる" ("The nail that sticks up gets hammered down"). Contrary to what we are brought up to, justice for the individual subordinates to the profits of organizations in reality. Yet, rarely do we Japanese openly talk or acknowledge that. By the age of 10, I felt that becoming an adult meant learning to ignore unfairness for the sake of propriety.

    But when I began listening to heavy metal bands like Helloween, Europe and Queensryche in the late 80s, I realized there was a different way of life. At 14, I heard Helloween’s song "I'm Alive." I remember thinking "Yes, I am still alive." Heavy metal, with its message of believing in and standing up for oneself, inspired me to begin writing my own music to demonstrate my opinion about society. Soon, I resolved that I would one day tour overseas with my own band like they did.

    To build toward my goals, I entered Kansai Gaidai (Foreign Languages) University in 1993 to study English. Meanwhile I started a part time course in a music college--Koyo Ongaku Gakuin--in 1996. I graduated from the University in 1997 with a Bachelor’s degree in English, and from the music college in 1998 with all courses successfully finished. I performed concerts vigorously as well, while also working part time at a "square" job.

    Such a busy life was challenging both physically and mentally. My idealistic and independent principles brought lots of opposition from my family and others. The pressure and extreme fatigue made me ill in January 2001, and I stayed in hospital for about 50 days. I had to give up music for more than a year to concentrate on the following medical treatment, but I didn’t give up my resolve. On the contrary, it made my will even harder. I told myself that if one small Japanese girl could accomplish her dream getting over her difficulty for all to see, maybe some people would realize what one person could do, and begin to live their dreams instead of only adjusting heartlessly to be a part of the system.

    I had recovered by summer 2002, and flew all alone to Germany, a country whose language I didn’t understand, and in which I had no friends. Although most people called my aspiration impossible, my determination brought encounters with new people there and made it possible. I released two albums worldwide, toured Europe, and performed at the world’s biggest festival. Achieving these, I felt I had finished my task. So I halted my music activity and went back to Japan in spring 2006.

    Since then, almost all foreigners, and Japanese with experience abroad, whom I've met, tell me that they are impressed by my communication style and insight coming from my experience both in Japan and other countries. They say I am the rare Japanese who can show opinions clearly in English, and advise me to use my skill more effectively. Now I feel I shouldn’t finish my struggle at this point. I feel a responsibility to speak out for my country. Perhaps I should start from translating some of our important texts into English in order to introduce its culture and people. For that, I would like to improve my English further.

    In Europe, I saw that children were strictly disciplined when young, but that as they got older, they were taught to assert themselves to get more rights. In contrast, Japanese children have a lot of freedom and rights, but as they grow up they are taught to relinquish them. While Japanese children don’t apologize for something they have no fault in, many Japanese adults would rather apologize, simply to avoid conflict. When people are not taught to assert themselves on a personal level, how can their country declare its ground? To me, this is a symptom of one of Japan's problems in the world community. I feel Japan is developing misunderstandings on the national level by this attitude of not speaking out. If no one explains more clearly, it may lead to unnecessary conflicts with other countries and eventually have a negative impact not only on Japan but also on other countries.

    I can study English at many universities, but I feel a spiritual connection especially with Leiden University because of its historical relationship with Japan. As the oldest university in the Netherlands, it introduced Japanese studies for the first time to Europe. It had samurais from the Edo period as students as well. Also, I expect students to be more diverse in the Netherlands than in the US or UK. Studying in such an internationalized surrounding under highly-qualified professors will surely enrich my life, not only by improving my English, but also by exposing me to a more global point of view and sundry values. The words on my promotional postcard I have enclosed encompass my philosophy of life: "May everyone live his life as he wishes, the one and only life on this earth, to his glorious day." Likewise, I believe that each nation has its unique beauty and destiny. Leiden's curriculum and history demonstrate that it is the best place for me to foster these values.

    Finally, I have enclosed one of my albums. Anyone who wants to know about me can best learn who I am from my lyrics, pictures and music.
  • 2007年7月  日本を離れようと決めて… 
    日本を離れようと決めて、早速動き始めました。週末は英会話講師を続けながら(あ、通信添削の在宅ワークもはじめました)、4月9日~6月9日の2ヶ月間、平日はみっちり集中の日本語講師養成講座に通うことにしたのです。何故、日本語講師って?だって、やっぱり闇雲に日本を出るわけにいかないやん?!2002年に日本を離れた時はお告げがあったけど、今回は自分の意志で出て行くから何の保証もないし、仕事探しとか、最低限、自分でできる準備をしておこうと思ってね。日本では英会話講師として雇ってもらえたけど、海外で語学講師として採用されるのは母語話者だけだと思ったから、私の母語、日本語講師の免許を取得しようと思ったのです。

    通ったのは東京の新世界語学院。月~金曜日、毎日9時~18時まで、授業実習も3回ほどあって凄く凄~く濃ゆかったです。ここに通いながら、土曜日は朝から英会話を6クラスを教え(それも全部違う教科書で、毎晩準備が大変だったよ~)、プラス、通信添削の仕事まで。この3足のわらじ生活をやってのけた自分は我ながら凄いと思う。本当に大変で、「もう無理~っ」て時期もあったけど、6月9日に、無事、日本語講師有資格者になりました。嬉しいです。

    資格取得が目的だったけど、何より素晴らしかったのはそこでのクラスメートとの出会いです。私も入れて13人、一緒に一つゴールに向かって頑張ってなんだろ、Fairy Mirror 時代にメンバーと共有した熱い何かを思い出したよ。それに、今まで世界を放浪し続けて?!きたとか、アメリカで博士号とってきたとか、世界を見たいから小学校教師をやめてきたとかなんか変わった人(というか、日本社会に合わせらなかった人達?!)ばっかりで面白かった。日本にいると(会社面接なんかは得に)、この日本社会の価値観が全てで、それ以外はありえへんみたいな空気を感じるけど、このクラスには「いろんな生き方があっていい」って空気が流れてたんよね。これまでの異文化経験の思い出話を共有できたのも良かった。インド、中国、ベトナム、ブラジル、大阪?!、卒業後に目指す場所は皆それぞれ。皆で情報交換し合って就職活動をしました(なんと数人は卒業前に仕事が決まったんです)。「実家に戻ったり、就職先に旅立ったり、皆もう離れ離れだね~」って、卒業式は全員涙ウルウルでした。

    残念ながら、私はまだ海外での就職先は決まりません。しばらく英会話講師&在宅ワークの日々です。だけど、どこかで道は開ける。この大空の下、まだ会ったことのない貴方に会いたい。まだ見たことのないものを見たい。何かを伝えたい。
  • 2007年3月  あれから職探しを再開
    あれから職探しを再開。一般企業の面接は相変わらず落とされまくり、日雇い労働をしながら面接を受け続けました。経歴を活かそうとしたけど、あまりに普通じゃなさ過ぎて?!言えば言う程馬鹿にされました(使い物にならないと笑われる度に自分が凄い駄目人間な気がしたよ)。で、経歴を問わない英語力だけで雇ってもらえる職探しに変更。去年10月にめでたく英会話講師として採用され、通訳学校にも通うことができました。

    でも、仕事に学校にと充実してるはずなのに、相変わらず虚無感は続きました。特に何がって訳じゃなく、何をするにも体が重かった。充実感を求めいろいろ行動したけど、やっぱり全て虚しかった。そんな時(昨年末)突然一ヶ月の休みをもらいました。休み後は長期雇用契約を交す予定で、これで充実するかなと期待すると同時に、疲れた体でちゃんとやっていけるか少し不安でした。で、思い切ってその休みを利用してハワイに遊びに行ったのです。

    帰国後の3月現在も講師として働いていますが、私、長期契約は交わさないことに決めました。ハワイで過ごすうちに、この数年間音楽だけに全てを捧げてきた自分が今一番必要としているのは、何よりも、たった一人のスペシャルな誰かだと気づいたからです。数年間、誰も愛していない・・・、それが虚無感の原因で、それを解決しない限り、きっと人生の何事も進展しないのです。-- Life is gray without love, right? -- 幸せも 分け合う人がいなければ意味がないのです。

    地球のどこかに私を待っている人がいると信じたい。どこかわからないけど、日本でないと思えば、また本能のままに日本を離れるつもりです。本気で誰かを愛せさえすれば、また歌がかける気がするんです。今度は愛の歌を・・・。
  • 音楽活動停止宣言  2006年末
    14歳から思いつめてきた『伝えたかった何か』。それだけが私の生きる理由、その為には命を賭けていいと本気で思っていた。だから、今回、アルバムをリリースして、自分が伝えるべきことを全て書いたと感じられた時、悔いは何一つ無かった。「ああ、これで思い残すことなく死ねる」とさえ思った。と同時に、今後はこれまで出来なかったことをしようと思った。

    これまで出来なかった事それは、恋愛。明日が全く見えない異国での生活、その『何か』を伝えるまでは絶対に帰国できない ... そんな状態で愛する資格も愛される資格もない気がして、ひたすら感情を封印し続けた。

    今やっと解放される。日本を離れる時に別れてきた当時の彼氏にもう一度会いたい。彼の家の近所の観覧車に乗りたい。一緒にカプチーノを飲みたい。そして、もし今も彼が私のことを待っていてくれたら(自分から彼を置いてきといてそんな都合のいい話はないって感じやけど)今度こそ一緒に暮らしたい。それを第二の人生の出発にしたい。本気でそう思った。

    だけど、現実はそんなに甘くない。彼は私を待ってはいなかった。『帰るかわからない、待たないで』と言い続けてきたのだから責める気にはならなかった。でも、4年半も想いを封印し続けた後に悲しい現実に直面してなんだろう、心にとてつもなく大きな穴が開いたようだった。契約時と条件が変わってきたレーベルを離脱したお陰でお金も使い果たしていた。

    だから、悔いは無かったけれど、でも、自分には何も残されていないような気がした。

    それで、神様みたいな『何か』に問いかけてみた。「愛する人も家族も国もお金も捨てて『愛や夢、信念の力』を伝えようとしたのに、私へのご褒美はないのですか? 私がした事は全て無意味だったのですか?」と。問いかけても問いかけても答えは無く、私は泣いた。だけど、私はまだ32歳、どれだけ心にポッカリ穴が開いていても、生きていかなくちゃならない。

    だから自分を励ましてある日「世界のどこかに、私の歌から勇気をもらった人は絶対にいる!」と信じることで納得した。

    大きな力の前に壊されていく小さな一人一人の夢の数々。そんな夢の一つである自分の夢を守り通したのだから、励まされた人がきっとどこかにいるはず。世界のどこかで新たな夢が生まれ、今後、何らかの形で花開くかもしれない。それが私へのご褒美。

    そして思った。振り返れば、限界ギリギリにまで疲弊しながら、一人欧米人の中で揉まれ揉まれたこの4年半の異国暮らし、その中で考えたこと、経験したことそれらをなんらかの形で、日本や世界の為に活かせないだろうか。この4年間、歴史や文化の壁にぶつかり、思考の違いに泣き、世界に向けた日本の情報発信の少なさや、自分達が世界についていかに無知だったかを痛感し続けた。そんな自分だからこそ出来る事があるんじゃないか。それを第二の人生のテーマに出来れば

    2002年に日本を発つ前、教会で神父さんに言われた言葉が蘇った。『新しい風が吹いたら、またその風に乗って戻っておいで』・・・きっと今、その風が吹いている。

    そんな時、某翻訳者・通訳者養成コースのサイトを目にした。『国連機関主催の国際会議・シンポジウムや政府間交渉・記者会見などの通訳を多数手がけています。海外の情報を日本に、そして日本の情報を海外に、正確にすばやく伝える為の通訳者・翻訳者を育成しています。』直感した。「これだ!」 このコースを終了し、直接的、或いは間接的にでも世界と日本にまたがる相互理解の一助になるような仕事に携われないだろうか。 今回のプロダクション離脱を通し、純粋な(嘘のない)表現活動を続けて行くには、音楽活動以外に、社会人としてしっかり自立した経済的基盤を確立する必要性も実感した。とにかく帰ろう、日本に。そして、また、一つ一つ答えを探していこう。

    そして、2006330日、帰国。

    色々な想いを胸に戻ったけれど、やっぱり心の穴はそう簡単に埋められるものではなく、しばらく燃え尽き症候群のように何も出来ない日々が続いた。日本では当然ながら今後の音楽活動への質問やライブ希望の声に出会った。もちろん嬉しかった。そんな皆の為にも日本でライブすべきだと思ったし、昔のバンド仲間とまた一緒にやりたいとも思った。でも、実際にプレイすることを思うと、燃え尽きたと感じる今、ステージから何を伝えられるのだろうそれが見えなかった。まだ歌う時期ではないのではないか。そう思った。帰国前に定めたように、私の心は次の目標に向かい始めていた。この状態で歌うのは不誠実な気がし、何か違う気がした。ライブはやめようかでも、こんな自分なりの理由が、果たして理解され受け入れられるだろうか。応援し、待ってくれる皆を裏切りたくないのに。そんな葛藤が続いた。

    時は刻々と過ぎる。とにかく何か行動を起こさなければと感じ、学校のある東京へ5月末に引っ越して職探しを始めた。通訳コースに通いながら安定した仕事に就けば、音楽活動がおろそかになる。音楽活動を優先すると、経済基盤を立て直すどころか勉強する時間がなくなる。どちらを優先すべきかわからず中途半端な気持ちでは面接もアウトばかり。語学や今までの経験を活かした職にはつけず、見つけたのはレストランのバイト。この収入じゃ学校にも行けない。このままでいいのだろうか?

    そんな時、一通の手紙が届いた。それはまさに私の心の核心を言い当てた、自分の意志を再確認させてくれるものだった。嬉しかった。『私を理解し受け止めてくれる人はいる。 きっと皆にもわかってもらえる』そして、私はやっと正式に心境を発表する決心をしました。

    しばらくアーティストとしての音楽活動を停止します。こんな風にいつまでも迷いの日々を過ごすのはやめて、帰国前に定めた新たな目標にきっぱりと向き合ってみます。何事も一歩ずつ。まずは経済的基盤を確立しなければなりません。もう一度、職探しからやり直して、通訳コースに通います。授業は週一回だけど、最低週10時間以上の予習復習が必要だそうで、卒業できるのは一部の生徒のみ。働きながらだと、数年間、猛烈な勉強と努力が必要になりそうです。でも、本気で世界に貢献したいならそれくらい頑張れるよね。

    日本で音楽活動を続ける方が安全かもしれない。活動を停止して新しい事に挑戦するなんて … 5年後、10年後になんの保証もない。でも、結果云々より、そういう過程を真剣に生きることこそが SAEKO の生き方だと思うのです。そして、打算を抜きにした葛藤の中から自然に、心の底から自然に湧き出す『伝えたいこと』がメッセージとなるのが SAEKO の表現の在り方だと思うのです。伝えきったと感じる今、形だけで音楽を続けるのは SAEKO らしくない。『伝えたいこと』が出てきた時に(それがいつになるかはわからないけれど)、その想いを込めてライブやアルバム製作をする。それが、SAEKO なのです。だから、新たな目標への挑戦はそのまま遠い将来の表現活動に繋がっていて、私の中で両者はイコールの関係なのです。

    最後に、頂いた手紙を一部抜粋します。

    『アルバムを聴いて、僕は、音楽として伝えるべき事を、SAEKO さんは伝えきったのではないかと感じました。そう断言できるくらい、アルバムを聴き終わり感じました。それは、SAEKO さんが今はしばらく音楽を続ける気持ちがないと言っていた事にも繋がります。

    ミュージシャンは、今伝える思いが無いのに 歌を歌うべきではないと思います。聴く人に失礼だからです。話題作りの為だけに様々な労を施す音楽業界への不満を言い出したらキリがありません。「ずっとアップテンポの曲が続いたのでバラードを出してみようか」とか、「最新の流行スタイルを取り入れてみよう」とか。とにかく、歌に関しては、また伝えたい事がでてきて、それをまた歌で、音楽で表現したいと思った時にこそ SAEKO さんには歌って欲しいと思います。

    それと、これから何をすべきか見えないと言っていましたが、僕はその答えがそんな遠い場所にあるとは思いません。SAEKO さんの伝えたい思いを表現する方法が変わるだけだと思うからです。歌で表現できる事を伝えきった今、また違う方法で表現する時が来たんだと思います。インタビューの記事で、本を書いてみたいと言っていましたね。それも新しい表現方法の一つだと思います。大事な事は、これからの人生がゼロからのスタートではないという事です。音楽で表現してきた強くて大切な基盤を、またこれから新しい方法で引き続き築き上げていくのが大切なのではないかと僕は思っています。

    最後になりますが、僕は SAEKO さんがいつかまた歌を歌う日が来るような気がします。僕には大切な歌があります。Louis Armstrong What a Wonderful World という曲です。人生を本当に素晴らしいと思える人は悲しみや苦しみを乗り越えてきた人だと思います。SAEKO さんにはいつか、そんな曲を歌ってもらいたいし、歌うべき人だと僕は思っています。』

    もう一度、新しい人生に挑戦して生きてみます。何か展開したら サイトで紹介しますネ。

    人生を創造する、それはこの世のどんな音楽や絵画や彫刻にも勝る、最高にリアルな芸術だと思います。一表現者として私が目指したこと、それは歌を歌うことだけではなく、『未来に向かって、自分の未知の可能性に挑戦し、目の前のたった一度の人生を、一歩一歩自分を信じて生きていくこと』でした。そういう意味で私の創作活動は続きます。そして、クサイけど、そういう意味では誰もがこの世でたった一つの作品を手がけているアーティストではないかと思います。そう、たった一度の人生、失敗なんて恐れずに思いっきり生きよう!!!

    誰もが自分らしく生きられますように・・・。

    頭上の大空は、今日も私達一人ひとりを呼んでいる・・・TO OUR GLORIOUS DAYS!
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